貨幣とは鋳造された自由である
この言葉は、ロシアの小説家ドストエフスキーの小説の中にでてくる言葉ということですが、僕は、恥ずかしながらドストエフスキーは読んだことがないので、(後に「罪と罰」を読みました。)どの小説のどんな場面で使われているのかは、わかりませんが、この部分だけを見ても、お金についての核心をついているような気がします。
一応説明しておくと「鋳造(ちゅうぞう)」というのは、鉄やアルミなどの金属を高温で溶かして、型に流し込んで冷やして固める加工のことを言いますが、ドストエフスキーの時代は、お金と言ったら、もっぱら金属を使った貨幣が流通していたのかもしれません。
なので、「貨幣とは・・・」の貨幣は今の時代ならお金に置き換えてもいいのかなと思います。
今の時代なら、「鋳造された」というところも「印刷された」に置き換えられるかもしれません。
いやいや、今はネットでお金のやりとりができるので「ビット表示された」のほうがしっくり来るかもしれません。
なんか、こうして見るとどんどんとお金の存在って軽くなってきているような気がしませんか?
それはともかく、ドストエフスキーがどういうつもりで「貨幣が鋳造された自由」と書いたのかはわかりませんが、「お金があれば自由を手に入れられる」という意味が込められているんじゃないかと、察します。
たとえば、お金があれば生活のために就いている仕事であれば、辞めることもできます。
昼食を食べるとき、500円しか持っていなければ、牛丼か立ち食いそばか、コンビニ弁当くらいしか食べられませんが、お金があれば、フレンチのフルコースだって大丈夫です。つまり、それだけ選択肢の幅が広がるということになります。
ところで、僕は、この言葉を知った時、ふと思ったことがあります。
もし、ドストエフスキーの言うとおり、貨幣が鋳造された自由であるなら、借金をするということは、将来の自由を前借りしていることになるのではないかと。。。
借金をして家を建てれば、賃貸の狭くて自由が効かない住まいから、郊外に自分の自由にできる一戸建てへ移ることはできます。
ただし、その快適な住まいは、将来の自分から前借りしたものなので、もしも、将来に何らかのひずみが生じてしまったら、先に自由を前借りしている分、将来で不自由を受け入れなくてはならないかもしれません。
まぁ、そこまで言ったら、深読みしすぎなのかもしれませんし、僕はすべての借金が悪いものだとは今でも思っていません。
でも、ドストエフスキー自身が、借金にはかなり苦労した時代があったようで、その実体験から出てきた言葉だけあって、深みがありますね。
ドストエフスキーが言うように貨幣が鋳造された、いわゆる作り物の自由であるのなら、その作り物であるお金が返せなくなったからといって、必要以上に苦しんだり、犯罪を犯してまで返そうとしたり、自殺したりする必要はないんじゃないのかな〜とも思わせられた言葉でした。